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おかげさまでご予約予定枚数は終了いたしました。
当日券は公演当日18時よりご来店順にお名前を受け付け、
当日キャンセル・未来店状況を鑑みつつ、ご予約のお客様が一通りご入場後にご案内予定です。
(キャンセル・未来店状況によってはご案内できない場合もございますので、
予めご了承くださいませ)
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伝統ある『モントルー・ジャズ・フェスティバル』が、『晴れ豆』で!
Flo Morrisseyと青葉市子。日英が誇る若き才能が、代官山で邂逅!
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Montreaux Jazz Festival Japan 2015 公式サイト
Flo Morrissey Facebook公式ページ
青葉市子 公式サイト
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開 19:00 演 20:00 ・ 前 4,000 当 4,500 +1D 600
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整理番号順入場
メールでのご予約
電話でのご予約
おかげさまでご予約予定枚数は終了いたしました。
当日券は公演当日18時よりご来店順にお名前を受け付け、
当日キャンセル・未来店状況を鑑みつつ、ご予約のお客様が一通りご入場後にご案内予定です。
(キャンセル・未来店状況によってはご案内できない場合もございますので、
予めご了承くださいませ)
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伝統ある『モントルー・ジャズ・フェスティバル』が、『晴れ豆』で!
Flo Morrisseyと青葉市子。日英が誇る若き才能が、代官山で邂逅!
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青葉市子 公式サイト
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開 19:00 演 20:00 ・ 前 4,000 当 4,500 +1D 600
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整理番号順入場
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Flo Morrissey / フロー・モリッシー
今年<True Panther Sounds>からデビューしたトバイアス・ジェッソ・Jr と共に UK ヨーロッパ・ツアーを 行い、各国でファンを獲得中、今最も注目すべきアーティスト、
1994 年生ま れの英ロンドン出身シンガー・ソングライター 。14 歳でギターを習い始めた彼女が奏でる気品溢れる楽曲は、シャロン・ヴァン・エッテン、ジョアンナ・ニ ューサム、カレン・ダルトン、ジャクソン・C・フランクを彷彿とさせ、ラナ・デル・レイと比較されるその甘美 な歌声に世界中が虜になるだろう。
元コーラルのギタリストでアークティック・モンキーズのコラボレ ーターとしても活躍するビル・ライダー・ジョーンズも彼女を絶賛している。
アルバム・デビュー前から NYLON で特集が組まれるなど多くのメディアから注目を集め、チャーチズ、フェニックス、マムフォー ド&サンズが所属する<Glassnote>からデビュー・アルバム『トゥモロー・ウィル・ビー・ビューティフル』が今年10月にhostessよりリリース決定!!
「忘れることの出来ないバラード・・・そして歌声は甘くスウィートにしたラナ・デル・レイのようだ」 – DIY
1994 年生ま れの英ロンドン出身シンガー・ソングライター 。14 歳でギターを習い始めた彼女が奏でる気品溢れる楽曲は、シャロン・ヴァン・エッテン、ジョアンナ・ニ ューサム、カレン・ダルトン、ジャクソン・C・フランクを彷彿とさせ、ラナ・デル・レイと比較されるその甘美 な歌声に世界中が虜になるだろう。
元コーラルのギタリストでアークティック・モンキーズのコラボレ ーターとしても活躍するビル・ライダー・ジョーンズも彼女を絶賛している。
アルバム・デビュー前から NYLON で特集が組まれるなど多くのメディアから注目を集め、チャーチズ、フェニックス、マムフォー ド&サンズが所属する<Glassnote>からデビュー・アルバム『トゥモロー・ウィル・ビー・ビューティフル』が今年10月にhostessよりリリース決定!!
「忘れることの出来ないバラード・・・そして歌声は甘くスウィートにしたラナ・デル・レイのようだ」 – DIY
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青葉市子 / ICHIKO AOBA
音楽家
1990年生まれ。2010年アルバム『剃刀乙女』でデビュー。
これまでに4枚のソロアルバムを発表。
音楽家
1990年生まれ。2010年アルバム『剃刀乙女』でデビュー。
これまでに4枚のソロアルバムを発表。
最新作はマヒトゥ・ザ・ピーポーと結成したユニットNUUAMMの1stアルバム「NUUAMM」。
2015年夏、舞台「cocoon」に女優として参加。
10月には舞台「みつあみの神様」の音楽を担当する。
その他CM音楽、ナレーション、作詞家、エッセイ等さまざまな分野で活動中。
その他CM音楽、ナレーション、作詞家、エッセイ等さまざまな分野で活動中。
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フロー・モリッシーについて
「私は年齢を超越していたいんです。それを歌っているひとりの若い女の子の中に存在しているわけではない私の音楽には、別の次元の領分が備わっている。私はそう考えるのが好きなんです」。フロー・モリッシーは若干20歳の少女だが、しかし彼女の声と楽曲はタイムレスな性格を湛えている。つまり、遠い過去の時代の魂が持つ重々しさを兼ね備えた異界的な素朴さを。それは稀有な資質である。カレン・ダルトン、ジャクソン・C・フランク、あるいはジョアンナ・ニューサムの作品を想起させる資質であり、それが彼女の独特で瞠目に値する才能をしるしづけている。
フロー・モリッシーは、ロンドンはポートベロ・ロードのはずれで、9人もいる兄妹弟の上から2番目の子どもとして育った。子供たちはごく真っ当な養育を授かった。もしもそうでなかったら、彼女自身の際立った才能を開花させる素地も確信も育つことはなかっただろう。「私たちは誰も反抗的な子供ではありませんでした」と彼女は言う。「それに私たちはみんな、一貫して家族との結びつきを大切にしてきているんです。私は年輩の人たちとは特に親密になれます。両親にはべったりです。私はパーティに出かけるよりも家族と一緒に家で過ごしているような人間なんです」。そんな彼女にデヴェンドラ・バンハートやアントニー&ザ・ジョンソンズを教えたのは彼女の父親であり、ジェフ・バックリーとティム・バックリーに注意を促したのは彼女の兄だった。「それにボブ・ディランのことはいつも知っていました」と、彼女。「たぶん8歳の頃だと思うんですが、学芸会でディランの『マギーズ・ファーム』を歌ったんですよ。カウボーイ・ハットとカウボーイ・ブーツ姿でステージに立って」。彼女が音楽の中で最も大切だと思うもの、彼女自身の音楽の中にも見出されるものかもしれないそれは、「障壁となるものを持たないようにするための、可能な限り最良な方法による児戯めいた何か、ほとんど抗しがたい何か」ある。
モリッシーがギターを習い始めたのは14歳の時だった。レッスンからほんの数週間後に自分の親友のために歌い聞かせたあのスリルを、彼女は今なおよく覚えていて、「歌っているうちに曲ができていったんです」と微笑む。「いいことを思いついちゃってすごく興奮しました。家に帰ったらそれをガレージ・バンドの曲としてレコーディングしようって」。その後すぐ、彼女は自分がレコーディングしたものをMySpaceに投稿していく。みずみずしい演奏で、彼女の最初の自作曲とともに、「神の祝福とご加護を」や「マイ・フェア・レディ」などのカヴァー曲も。「他の曲は全部捨てて、これをスタートにしたんです」と彼女は言う。
モリッシーは17歳で学校をやめる。音楽とフランス語でAレヴェルを取ることを放棄して、ソングライティングの道をさらに進むことにしたのだ。「大きな決断でした」と彼女は認める。「でも私がやりたいのは音楽で、大学に籍を置くことではないと分かっていたんです。社会に出て音楽をやることがいかに怖いことではあっても、とにかくやらなくちゃいけないんだという思いが私にはあったんでしょう」。彼女が主張するところでは、彼女の両親は娘の思いを全面的に支持したのだった。「両親は、私が日長自分の部屋に籠って曲の構想を考えている間は、私をそっとしておいてくれたんです」と彼女は言う。「そして、14歳の時から音楽を作っていて、それをせっせとMySpaceに上げたり、インターネットのおかげで自分のマネージャーやレコード・レーベルと出会う道も拓けた私の決断に、両親は賛成してくれました」。
15歳の時、モリッシーは「Show Me」という曲を書いた。驚くほど美しく、心をわしづかみにするようなその曲は、高く飛翔したかと思ったら深く潜行し、身をくねらせるように、転覆するかのように歌う彼女の飛び抜けた声を披露してみせる。それを兄に聞かせた彼女は、兄の反応の良さに勇気を得、スーパー8でヴィデオ映像を撮り溜めていくことを始める。それらをVimeoに投稿していくのだ。
迂回的な方法ではあったが、しかしこのヴィデオこそが、デヴェンドラ・バンハートやニール・ヤングのマネージャーを務めるエリオット・ロバーツや、グラスノート・レコーズのダニエル・グラスが彼女への興味を抱くきっかけとなったものだった。そして彼女がこのレコード・レーベルと契約した理由は「私が今やっていることのほとんど全部が、家族やコミュニティの感覚と、素晴らしい人々とともにあることとに集約されなければいけないからです」。
過去5年にわたって書き溜められてきた楽曲のコレクションである彼女のデビュー・アルバムにおいて礎となるのが「Show Me」だ。
「これはかつてのこと、部分的には大昔のことだけどいくらかはもっと最近のことでもある、広がりの大きな記憶の残像の歌ですね」と彼女は説明する。「ティーンでいたいわけではなかった私の、ティーンだった年月を歌った曲です」。
自分はソングライターとして成長したと彼女は言う。何か新しいことをすると感じる最初の驚きと興奮は、彼女を異なる道へといざなうのだ。「何かがひらめく瞬間があるんです」と彼女。「でもそれは、私が愛してやまない何かをおこなう上でのさらなる訓練になっていくんです」。巧みさへの内発的な志向の中、自身が持つ優美さやリズムの表現が深耕されていく。「私の変化に伴って変化していく何ががそれなんです。毎日のように変化は起こります。その変化に私は付き従わなければいけないんだわ」。
彼女は、こまごましたものを集めて巣に持ち帰るカササギのようなまなざしで、霊感を求める。彼女は絵画や写真の展覧会などで視覚的刺激を追う。同様に、詩、文学、名探偵ポアロの本の最初の数行への愛着もあれば、フランスとフランス語への深奥で高らかな愛情もある。「もちろん、家族のことや私の日常体験の影響で歌を書くことが中心にはなるわけですが」と彼女は言う。「なにしろ私は若いので、経験には乏しいからですね。自分が見たものや大げさに感じようとしていることからある感情を喚起させようと努めてはいますけど、たぶんそうすれば年長者みたいな気持ちになれるのかもしれません。まるで全人生を生きてしまった人みたいに」。
彼女の新しいシングル、壮麗で夢想的な「Pages of Gold」は、深奥なまでにパーソナルな曲だ。「スナップショットですね」と彼女は言う。「10代の若者の意識の混乱を捉えたスナップショット。自分の望むままに感じるところでは間違いを犯す、だからその感じ方を脇に置いて、心の動揺に屈することなく正しいおこないをする人には理があるという歌なんです。ラヴ・ソングとして書かれていますが、とにかく動揺がテーマなんです。でも、歌とともにいる私はしばしば、自分が曲を書いている時間にその曲がどうあるのかが分からなくなってしまうんです。自分の曲を自分で理解できるようになるのは後になってからのことにすぎないんですね。そして私が今自分の曲を歌う時、その曲を書いた時とは全然異なる立ち位置にある自分を感じながら歌うわけです」。
モリッシーはノア・ジョージソンによるプロデュースの元、ロサンゼルスでアルバムをレコーディングした(ノア・ジョージソンは、デヴェンドラ・バンハート、ジョアンナ・ニューサム、リトル・ジョイ、バート・ヤンシュ、アダム・グリーン&ビンキ・シャピロら、これまで数多くの才能を手掛けてきた敏腕プロデューサーだ)。そのために彼女は、「さびしくて」「驚くことばかりの」この街で、2か月半の時を過ごした。「木靴を履いてあちらこちらと」スタジオの中や外を歩き回って。
アルバム収録曲はとても内省的に書かれ、彼女の心と強い繋がりを持っている。共作の申し込みはいくつもあったが、それらはすべて「私はとてもパーソナルで正直なアルバムを作りたい」という理由で撥ね付けられた。生煮えの状態の曲を他人に見せることへの、一種の怯えのような感情もそこには働いていた。
しかし、彼女が言うには、ジョージソンは彼女に対して「自作曲を新たな方法で聴かせてくれた」。彼は様々なアレンジを考案し、ギター、ハープ、ハーモニウム、ピアノでイントロを付けたのだ。「ノアからはとてもたくさんのことを学びました」と彼女。「曲が生まれ出る方法を、しかも口うるさくはなく教えてくれたんです。最初に曲の骨格を作ったうえで、音楽にきちんとした存在証明を与えようと。誰かと一緒に特別な経験を共有することを通じ、理想のアルバム作りとレコーディングはまさにこうしたものだと私に実感させてくれました」。
彼女はまだごくわずかしかライヴをやったことはない。グリーン・マンやウィルダーネスでの公演は大好評をもって締めくくられたが。しかし彼女は2014年の秋には突如カジノ・ドゥ・パリのステージに立ち、デーモン・アルバーンの愉快な前座として2000人の聴衆を前に2曲をプレイしたのだった。
「可笑しいんです。演奏中の私は時々考えることもできなければ自分をコントロールすることも忘れてしまうの。やりすぎだって思ってもいるわ。そういえば、どこかではこういうことがあったんです」。彼女がフランス・ユーロヴィジョンで「Pages of Gold」と「L’Amour est Bleu」を歌った時のことを思い出している。「最初の曲の途中で、突然5人の屈強な男の人たちが私をカーテンの後ろに押しやって、機材をどけてしまったんです。みんなは手を叩いていたわ。すごく変な感じでした」。
しかし、彼女によれば、その時の聴衆はとても好意的だったのだという。「その客席にはにっこりしている女の子がいたわ。そして私もにっこりして、これはただの曲よ、そう思っていてね、と考えることにしたんです。だって誰だって時には笑わなきゃいけないもの。ね? 完全にバカげた事態の只中にいる時はね」。
なお、「9メアリー」の名で細々と活動していた時分の無名の彼女を偶然発見し、世界に先駆けて高い評価を下した日本人がいる。音楽雑誌『ユリシーズ』(シンコーミュージック・エンタテイメント)や単行本『デヴィッド・ボウイ』や『解読 レッド・ツェッペリン』(ともに河出書房新社)を手掛ける一方、ライヴの企画運営、ポスターやCDジャケットのデザインにも力を注ぐ、編集者・批評家・アーティストの集団「ユリシーズ」である。そのユリシーズのオフィシャル・ブログでは、2012年12月1日にフロー・モリッセイへの最初のロング・インタヴュー(聞き手=河添剛)が、同年同月の18日には2度目のロング・インタヴュー(聞き手=平治)が掲載されている。http://ulyssesmagazine.blogspot.com/を参考のこと。
「私は年齢を超越していたいんです。それを歌っているひとりの若い女の子の中に存在しているわけではない私の音楽には、別の次元の領分が備わっている。私はそう考えるのが好きなんです」。フロー・モリッシーは若干20歳の少女だが、しかし彼女の声と楽曲はタイムレスな性格を湛えている。つまり、遠い過去の時代の魂が持つ重々しさを兼ね備えた異界的な素朴さを。それは稀有な資質である。カレン・ダルトン、ジャクソン・C・フランク、あるいはジョアンナ・ニューサムの作品を想起させる資質であり、それが彼女の独特で瞠目に値する才能をしるしづけている。
フロー・モリッシーは、ロンドンはポートベロ・ロードのはずれで、9人もいる兄妹弟の上から2番目の子どもとして育った。子供たちはごく真っ当な養育を授かった。もしもそうでなかったら、彼女自身の際立った才能を開花させる素地も確信も育つことはなかっただろう。「私たちは誰も反抗的な子供ではありませんでした」と彼女は言う。「それに私たちはみんな、一貫して家族との結びつきを大切にしてきているんです。私は年輩の人たちとは特に親密になれます。両親にはべったりです。私はパーティに出かけるよりも家族と一緒に家で過ごしているような人間なんです」。そんな彼女にデヴェンドラ・バンハートやアントニー&ザ・ジョンソンズを教えたのは彼女の父親であり、ジェフ・バックリーとティム・バックリーに注意を促したのは彼女の兄だった。「それにボブ・ディランのことはいつも知っていました」と、彼女。「たぶん8歳の頃だと思うんですが、学芸会でディランの『マギーズ・ファーム』を歌ったんですよ。カウボーイ・ハットとカウボーイ・ブーツ姿でステージに立って」。彼女が音楽の中で最も大切だと思うもの、彼女自身の音楽の中にも見出されるものかもしれないそれは、「障壁となるものを持たないようにするための、可能な限り最良な方法による児戯めいた何か、ほとんど抗しがたい何か」ある。
モリッシーがギターを習い始めたのは14歳の時だった。レッスンからほんの数週間後に自分の親友のために歌い聞かせたあのスリルを、彼女は今なおよく覚えていて、「歌っているうちに曲ができていったんです」と微笑む。「いいことを思いついちゃってすごく興奮しました。家に帰ったらそれをガレージ・バンドの曲としてレコーディングしようって」。その後すぐ、彼女は自分がレコーディングしたものをMySpaceに投稿していく。みずみずしい演奏で、彼女の最初の自作曲とともに、「神の祝福とご加護を」や「マイ・フェア・レディ」などのカヴァー曲も。「他の曲は全部捨てて、これをスタートにしたんです」と彼女は言う。
モリッシーは17歳で学校をやめる。音楽とフランス語でAレヴェルを取ることを放棄して、ソングライティングの道をさらに進むことにしたのだ。「大きな決断でした」と彼女は認める。「でも私がやりたいのは音楽で、大学に籍を置くことではないと分かっていたんです。社会に出て音楽をやることがいかに怖いことではあっても、とにかくやらなくちゃいけないんだという思いが私にはあったんでしょう」。彼女が主張するところでは、彼女の両親は娘の思いを全面的に支持したのだった。「両親は、私が日長自分の部屋に籠って曲の構想を考えている間は、私をそっとしておいてくれたんです」と彼女は言う。「そして、14歳の時から音楽を作っていて、それをせっせとMySpaceに上げたり、インターネットのおかげで自分のマネージャーやレコード・レーベルと出会う道も拓けた私の決断に、両親は賛成してくれました」。
15歳の時、モリッシーは「Show Me」という曲を書いた。驚くほど美しく、心をわしづかみにするようなその曲は、高く飛翔したかと思ったら深く潜行し、身をくねらせるように、転覆するかのように歌う彼女の飛び抜けた声を披露してみせる。それを兄に聞かせた彼女は、兄の反応の良さに勇気を得、スーパー8でヴィデオ映像を撮り溜めていくことを始める。それらをVimeoに投稿していくのだ。
迂回的な方法ではあったが、しかしこのヴィデオこそが、デヴェンドラ・バンハートやニール・ヤングのマネージャーを務めるエリオット・ロバーツや、グラスノート・レコーズのダニエル・グラスが彼女への興味を抱くきっかけとなったものだった。そして彼女がこのレコード・レーベルと契約した理由は「私が今やっていることのほとんど全部が、家族やコミュニティの感覚と、素晴らしい人々とともにあることとに集約されなければいけないからです」。
過去5年にわたって書き溜められてきた楽曲のコレクションである彼女のデビュー・アルバムにおいて礎となるのが「Show Me」だ。
「これはかつてのこと、部分的には大昔のことだけどいくらかはもっと最近のことでもある、広がりの大きな記憶の残像の歌ですね」と彼女は説明する。「ティーンでいたいわけではなかった私の、ティーンだった年月を歌った曲です」。
自分はソングライターとして成長したと彼女は言う。何か新しいことをすると感じる最初の驚きと興奮は、彼女を異なる道へといざなうのだ。「何かがひらめく瞬間があるんです」と彼女。「でもそれは、私が愛してやまない何かをおこなう上でのさらなる訓練になっていくんです」。巧みさへの内発的な志向の中、自身が持つ優美さやリズムの表現が深耕されていく。「私の変化に伴って変化していく何ががそれなんです。毎日のように変化は起こります。その変化に私は付き従わなければいけないんだわ」。
彼女は、こまごましたものを集めて巣に持ち帰るカササギのようなまなざしで、霊感を求める。彼女は絵画や写真の展覧会などで視覚的刺激を追う。同様に、詩、文学、名探偵ポアロの本の最初の数行への愛着もあれば、フランスとフランス語への深奥で高らかな愛情もある。「もちろん、家族のことや私の日常体験の影響で歌を書くことが中心にはなるわけですが」と彼女は言う。「なにしろ私は若いので、経験には乏しいからですね。自分が見たものや大げさに感じようとしていることからある感情を喚起させようと努めてはいますけど、たぶんそうすれば年長者みたいな気持ちになれるのかもしれません。まるで全人生を生きてしまった人みたいに」。
彼女の新しいシングル、壮麗で夢想的な「Pages of Gold」は、深奥なまでにパーソナルな曲だ。「スナップショットですね」と彼女は言う。「10代の若者の意識の混乱を捉えたスナップショット。自分の望むままに感じるところでは間違いを犯す、だからその感じ方を脇に置いて、心の動揺に屈することなく正しいおこないをする人には理があるという歌なんです。ラヴ・ソングとして書かれていますが、とにかく動揺がテーマなんです。でも、歌とともにいる私はしばしば、自分が曲を書いている時間にその曲がどうあるのかが分からなくなってしまうんです。自分の曲を自分で理解できるようになるのは後になってからのことにすぎないんですね。そして私が今自分の曲を歌う時、その曲を書いた時とは全然異なる立ち位置にある自分を感じながら歌うわけです」。
モリッシーはノア・ジョージソンによるプロデュースの元、ロサンゼルスでアルバムをレコーディングした(ノア・ジョージソンは、デヴェンドラ・バンハート、ジョアンナ・ニューサム、リトル・ジョイ、バート・ヤンシュ、アダム・グリーン&ビンキ・シャピロら、これまで数多くの才能を手掛けてきた敏腕プロデューサーだ)。そのために彼女は、「さびしくて」「驚くことばかりの」この街で、2か月半の時を過ごした。「木靴を履いてあちらこちらと」スタジオの中や外を歩き回って。
アルバム収録曲はとても内省的に書かれ、彼女の心と強い繋がりを持っている。共作の申し込みはいくつもあったが、それらはすべて「私はとてもパーソナルで正直なアルバムを作りたい」という理由で撥ね付けられた。生煮えの状態の曲を他人に見せることへの、一種の怯えのような感情もそこには働いていた。
しかし、彼女が言うには、ジョージソンは彼女に対して「自作曲を新たな方法で聴かせてくれた」。彼は様々なアレンジを考案し、ギター、ハープ、ハーモニウム、ピアノでイントロを付けたのだ。「ノアからはとてもたくさんのことを学びました」と彼女。「曲が生まれ出る方法を、しかも口うるさくはなく教えてくれたんです。最初に曲の骨格を作ったうえで、音楽にきちんとした存在証明を与えようと。誰かと一緒に特別な経験を共有することを通じ、理想のアルバム作りとレコーディングはまさにこうしたものだと私に実感させてくれました」。
彼女はまだごくわずかしかライヴをやったことはない。グリーン・マンやウィルダーネスでの公演は大好評をもって締めくくられたが。しかし彼女は2014年の秋には突如カジノ・ドゥ・パリのステージに立ち、デーモン・アルバーンの愉快な前座として2000人の聴衆を前に2曲をプレイしたのだった。
「可笑しいんです。演奏中の私は時々考えることもできなければ自分をコントロールすることも忘れてしまうの。やりすぎだって思ってもいるわ。そういえば、どこかではこういうことがあったんです」。彼女がフランス・ユーロヴィジョンで「Pages of Gold」と「L’Amour est Bleu」を歌った時のことを思い出している。「最初の曲の途中で、突然5人の屈強な男の人たちが私をカーテンの後ろに押しやって、機材をどけてしまったんです。みんなは手を叩いていたわ。すごく変な感じでした」。
しかし、彼女によれば、その時の聴衆はとても好意的だったのだという。「その客席にはにっこりしている女の子がいたわ。そして私もにっこりして、これはただの曲よ、そう思っていてね、と考えることにしたんです。だって誰だって時には笑わなきゃいけないもの。ね? 完全にバカげた事態の只中にいる時はね」。
なお、「9メアリー」の名で細々と活動していた時分の無名の彼女を偶然発見し、世界に先駆けて高い評価を下した日本人がいる。音楽雑誌『ユリシーズ』(シンコーミュージック・エンタテイメント)や単行本『デヴィッド・ボウイ』や『解読 レッド・ツェッペリン』(ともに河出書房新社)を手掛ける一方、ライヴの企画運営、ポスターやCDジャケットのデザインにも力を注ぐ、編集者・批評家・アーティストの集団「ユリシーズ」である。そのユリシーズのオフィシャル・ブログでは、2012年12月1日にフロー・モリッセイへの最初のロング・インタヴュー(聞き手=河添剛)が、同年同月の18日には2度目のロング・インタヴュー(聞き手=平治)が掲載されている。http://ulyssesmagazine.blogspot.com/を参考のこと。
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デビュー・アルバム『トゥモロー・ウィル・ビー・ビューティフル』
label: Glassnote / Hostess http://hostess.co.jp/release/index.html
cat no : HSU-19142
pos : 4582214512884
発売日: 2015/10/02(金) (UK発売日:6/16)
定価 : 2,100円+税
■日本通常盤はダウンロードボーナストラック、歌詞対訳、ライナーノーツ付 予定
企画制作 LIVIZM
協力 ULYSSES
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~Flo Morrissey Japan Tour 2015~
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デビュー・アルバム『トゥモロー・ウィル・ビー・ビューティフル』
label: Glassnote / Hostess http://hostess.co.jp/release/index.html
cat no : HSU-19142
pos : 4582214512884
発売日: 2015/10/02(金) (UK発売日:6/16)
定価 : 2,100円+税
■日本通常盤はダウンロードボーナストラック、歌詞対訳、ライナーノーツ付 予定
企画制作 LIVIZM
協力 ULYSSES
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~Flo Morrissey Japan Tour 2015~
10/9(fri) 晴れたら空に豆まいて with 青葉市子
10/10(sat) 太陽と星空のサーカス@京都梅小路公園
http://sunandstars.jp/
10/11(sun)
朝霧JAM
http://smash-jpn.com/asagiri/artists.html
10/12(mon) elephant STUDIO
http://www.elephant.tokyo/index.html
More details coming soon!!
10/10(sat) 太陽と星空のサーカス@京都梅小路公園
http://sunandstars.jp/
10/11(sun)
朝霧JAM
http://smash-jpn.com/asagiri/artists.html
10/12(mon) elephant STUDIO
http://www.elephant.tokyo/index.html
More details coming soon!!